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源実朝(鎌倉右大臣)と、
その和歌。
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実朝について(文責・尾崎克之

金槐和歌集について
金槐和歌集(きんかいわかしゅう)

「金」は「鎌倉」の「鎌」の字の偏。「槐」は“えんじゅ”という木の名前で、周の時代、この木を朝廷に三本植え、政治的な最高位・三公(日本でいう太政大臣・左大臣・右大臣)のおわすべき位置を示したことから大臣の意味を持つ。つまり、金槐とは実朝のことを指していて、実朝が右大臣に位したのは公暁に暗殺される直前のことだから、金槐和歌集は、実朝の死後に家集につけられた名称ということになる。

実朝の歌作品は賀茂真淵(18世紀江戸の国学者)によって再発見・評価されたとされているが、それ以前に、芭蕉(17世紀江戸の俳人)が弟子・木節に中世の歌人といえば誰かと問われ、“西行と鎌倉右大臣ならん”と答えた記録がある(俳諧一葉集)と、小林秀雄が「無常という事『実朝』」の冒頭に触れている。賀茂真淵は万葉集を原理とする研究家で、その視点から実朝を見ているが、芭蕉はそんな視点を除いての評価であるから興味深いと小林秀雄は同随筆の中で書いている。

真淵の、実朝と言えば中世における万葉流の大歌人という評価が引き継がれ、明治以降、正岡子規(1867~1902)、短歌雑誌「アララギ」(1908年創刊)の歌人たち、齊藤茂吉(1882~1953)らの実朝礼賛の根拠となった(齊藤茂吉は万葉ぶりのみでなく、より広い視点からの評価を積極的に試みている)。実朝がいわゆる万葉ぶりとされる代表的な歌はたとえば次の一首だ。

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箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
(読み:はこねぢをわれこえくればいづのうみやおきのこじまになみのよるみゆ)
(意:箱根の山道を越えてきた。ああ、伊豆の海だ。沖の小さな島に波が打ち寄せているのが見える。)
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実朝に歌論書を通じて和歌の指導をした藤原定家(1162~1241)が、相伝私本の万葉集を実朝に献じたのは実朝が二十二歳の八月。和田合戦の直後である。それを機会に実朝は万葉集に執心し、万葉ぶりとされる歌の数々はつまり実朝が二十二歳から暗殺される二十八歳までの間に詠んだ歌だとされてきた。

その前提が、昭和四年になって変更を余儀なくされることになる。賀茂真淵はじめ従来の研究者家達が手にしていた金槐和歌集はおおむね、貞享四年(1687年)に刊行された三冊本(貞享本と呼ばれる)を底本としており、これには家集編纂の年月記載は無い。そこに、昭和四年、佐佐木信綱(1872~1963)によって藤原定家所伝本が発見される。家集の、考えられる限り最も古い写本で、その奥書に「健暦三年十二月十八日 かまくらの右大臣家集」と記されていたのだ。

健暦三年は西暦に直すと1213年。実朝はまだ二十二歳である。定家から万葉集を献じられてからこの日付まで四ヶ月ほどの期間はあるにせよ、万葉ぶりの歌をすべてこの時間に収める解釈には無理があり、いずれにせよ金槐和歌集に収められた歌のすべては実朝が遅くても二十二歳までの間に詠んだ歌であることが、これで明らかになった。その早熟さと天才めいた詠みぶりがまた実朝の歌作品の再評価を呼び、さらには、現代文学というものの少々歪んだ嗜好にも合ったのだろう、戦前末期の文学者間での実朝ブームを呼んだと言うこともできる。

ちなみに藤原定家所伝本に収録された歌の数は663首(春116首、夏38首、秋120首、冬78首、賀18首、恋141首、旅24首、雑128首)、貞享本は716首(春132首、夏47首、秋132首、冬95首、恋155首、雑155首)である。


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