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源実朝(鎌倉右大臣)と、
その和歌。
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実朝.com 開設趣旨

18世紀にその開始を見る産業革命を礎として発明された近代資本主義および広義の拝金主義のシステムが2008年の世界金融恐慌を決定的勝事として崩壊しました。誰が悪いわけでもなく歴史の趨勢ということになりましょうが、ひとつ確かなことは、美意識を含むここ2世紀の間に構築されたすべての価値判断方法をすべて疑い、再度考え直してやり直さなければならない、またはやり直してよい時期を迎えたという、そのことです。

とはいえ、再度考え直してやり直そうと決めたところで、何をどうしたらいいのかさっぱりわからず、しかし「再度考え直してやり直そう」という姿勢を持つということは、“現代”というものの呪縛から解き放たれた状態になるということだ、と言うこともでき、まずはそこが出発点になりそうです。

“現代”には、様々な表現的遺産が、図書館に美術館に博物館に商業施設内に各家屋内および様々なメディア上に残されていて、いろいろな機会に目や耳にすることができ、時には触ることができます。「“現代”というものの呪縛」という問題は、そんな“現代”にあって、遺産の数々をいろいろな機会に目や耳にして感心もすれば感動もするけれどなんとなく納得のいかない気分つまり「だからなんなんだ」という気分にしかならない場合が多いのはなぜなのか、という問題です。受け継がれてきた時間の長さひとつを考えても、遺産の方に責任があるとは思えません。

中野孝次『実朝考 ホモ・レリギオーズスの文学』(1972年)の中に次の文章があります。
「自分を俎上にのせ、自分だけを方法とも対象ともする人間的行為が可能なのは、今は文学だけだ。そしてそれは、かつて宗教や形而上学が果たしてきた機能、無条件に、無前提に、生きることの意味を問い、生きる者のあらわな呼息を伝える営みを、文学が引受けることなのだが、ぼくはいまやそういうぎりぎりの絶対的な営みとしてしか文学の意味を見出すことができない。そうでない文学作品はすべて閑文学だ、他のすべてのものと同じ、人間社会を形成する社会的な機能としての商品だと見える。」
長々と引用して何が言いたいのかというと、つまり、私達には今、物事のすべてというすべてが、中野孝次の言う「人間社会を形成する社会的な機能としての商品」としてしか見えない、そこがうまくいっているのかそうでないのかという点にしか価値の拠り所を置くことができない、判断的頭脳がそこにしか働かずに思考停止してしまっている、そういう状態が「“現代”というものの呪縛」という状態なのだろう、ということなのです。そして、それは今の時代がとりわけそうだということでは決してなく、いつの時代も変わらず、実朝が生きていた時代も私たちが暮らす時代もそうであり、そこを調査して反省を加えることがすなわち「“現代”というものの呪縛」から解き放たれるきっかけになるはずです。

様々な表現的遺産が継がれる本来的な意義はそこにあって、継いでいくのは歴代の人々の鋭敏な嗅覚です。言ってしまえば、時代の様々な表現作品の評価のあり方がつまらない(作品がつまらないのではなく)のは、特に今の現代が、そんなところをとりわけ拙く振舞っているからでしょう。

実朝は、彼の時代にはすでに芸道と呼ばれて正しいまでに社会的に固定された和歌という伝統的表現にどっぷりと憧れ浸りながら、しかし“どうしようもなく今の自分が出てしまう”という作家です。実朝.comは、そこに、実朝の現代性と同時代性を見出しながら、“もう一度考え直してやり直す”ために、再度、実朝を味わおうという趣旨のもとに開設したサイトです。実朝は鎌倉時代という、永遠かと思われた社会のシステムが崩壊していく只中の乱世に生きました。まったく今とよく似た時代です。それを努めて同時代ということを意識して知るために、原著にはなかなか親しめない私たちにとって便利千万なことに、「方丈記私記」「定家名月記私抄」(堀田善衛・著)といった参考書もあり、この現代は、きわめて幸運であると言え、また、そこが年ふる歴史の手柄というものでしょう。そして、ひとまず、あるいはとにかく、実朝の歌は美しく、また凄まじくもありましょう。

平成二十年十二月吉日
実朝.com 運営主宰・尾崎克之


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