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源実朝(鎌倉右大臣)と、
その和歌。
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実朝と源氏物語(文責・尾崎克之
当サイト主宰・尾崎克之の試論です。
実朝が、世界観の大部分を源氏物語に牛耳られていた可能性と、
実朝が、強く自らを『薫』に准えていた可能性について調査・論考していきます。

1. 始めに。なぜ源氏物語か
 2009.8.26

この試論は、実朝がその行動原理のかなりの部分を「源氏物語」に縛られていた可能性についてと、実朝が強く自らを源氏物語の、とりわけ宇治十帖の「薫」に准えていた可能性について調べることを目的としている。
調べの進んでいない現段階ではその可能性は“感じ”にすぎない。なんとなくそんな気がするだけだ。なぜ、なんとなくそんな気がするだけのものを調査したいのかといえば、実朝の孤独が、存在の深刻から生じたものなどではなく、実朝が勝手に源氏物語から持ってきた幻想から生じた、きわめて能天気な孤独であったかもしれない、と思うからである。

実朝に源氏物語に触れる機会があったのかといえば、それはあった。鎌倉幕府の和歌奉行として実朝の学芸教育にあたった源光行・親行親子は、二代に渡る作業で、定家の「青表紙本」と並んで源氏物語の二大写本とされる「河内本」を1255年に成した古典研究家だったからである。

実朝は男性には好かれるが、女性にはあまり好かれない。北条政子の作家・永井路子も、その著書の中で、実朝についてはあまり評価しない、と明言している。源氏物語の薫が実は女性に好かれない、その感じに似ているような気がする。薫が好かれない、というのはこんなニュアンスだ。

中将は、世の中を深くあぢきなきものに思ひすましたる心なれば、なかなか心とどめて、行き離れがたき思ひや残らむなど思ふに、わづらはしき思ひあらむあたりにかかづらはんはつつましくなど思ひ棄てたまふ。さしあたりて、心にしむべきことのなきほど、さかしだつにやありけむ。
中将(薫)は、この俗世をあじきないものと悟りきった気持なので、なまじ女人に執着心をいだいたりしては、未練が残ってこの世を離れにくいことになりはせぬかなどと考えて、面倒なことになりそうなあたりにかかわりをもつのはさしひかえたほうがよい、などと断念していらっしゃる。それは、さしあたり心を奪われそうな相手もいないうちだから、悟ったような顔をしているということだろうか。(匂兵部卿/源氏物語・小学館新編日本文学全集から引用)

これに思ひさしつぎには、あさましくて失せにし人の、いと心幼く、とどこほるところなかりける軽々しさをば思ひながら、さすがにいみじと、ものを思ひ入りけんほど、わが気色例ならずと、心の鬼に嘆き沈みてゐたりけんありさまを聞きたまひしも、思ひ出でられつつ、重なりかなる方ならで、ただ心やすくらうたき語らひ人にてあらせむと思ひしには、いとらうたかりし人を。思ひもていけば、宮をも思ひ聞こえじ、女をもうしと思はじ、ただわがありさまの世づかぬ怠りなぞと、ながめ入りたまふ時々多かり。
こうしたことに思い悩んで、さてその次には、嘆かわしい有様で死んでいった宇治の姫君(浮舟)の、まったく無分別な、自らの進退を熟慮する点の欠けていた軽々しさを恨みながらも、それでもさすがになりゆきを深刻に思いつめていたということや、こちらの出方がいつものようでなくなったと、そのことを心の鬼に責められて嘆き沈んでいたという様子を右近からお聞きになったことも思いだされてきては、あの女は、重々しい妻としての扱いではなく、ただ気がねのいらぬかわいい話し相手にしておこうと思ったのであって、そうした向きではまったくいとしい女だったものを、こう考えてくると、宮をもお恨み申すまい、あの女をもつらいと思うまい、ただこの身のありようが俗世になじまぬ、その不運ゆえなのだ、などと虚けた物思いに沈みがちでいらっしゃる。(蜻蛉/源氏物語・小学館新編日本文学全集から引用)

これらは、作者の、薫に対する軽蔑の色が濃く思われるし、このあたりを橋本治の意訳創作「窯変・源氏物語」は明確に辛らつに表現する。薫が十四歳のときに詠んだ歌「覚束なだれに問わまし如何にして初めも果ても知らぬ我身ぞ(心配だ。誰にどうやって尋ねたらいいのだろう、どこから来てどこへ行くのかわからない、この私のことを)」をたびたびあげて、

しかし、此世に生を受けました誰が、その自身の初めと果てとを知っているのでございましょうか。人は誰も、その覚束なさを当然の前提として生きて参ります。それをさも、御自身一人が御承知になられたように思し召されますことは、あまりにもお心幼いことではございますまいか。(寄生/窯変源氏物語・中央公論社から引用)

と、批判させる。

つまりそれは倒錯ということであり、退廃(デカダンス)ということに他ならないが、実朝の孤独が能天気であった可能性について調べていくことで、ひとつの社会システムがすでに崩壊しているにもかかわらずそれに気づかずあるいはあえて気づかずにいようとする、変化を迎えた時代の、つまり鎌倉と現代という時代の共通性をもって、実朝の歌を今後さらに読んでいくことができるのではないかという気がしている。
右大臣実朝」の太宰治はあるエッセイの中で源氏物語について「源氏物語自体が、質的にすぐれてゐるとは思はれない。源氏物語と私たちとの間に介在する幾百年の風雨を思ひ、さうしてその霜や苔に被はれた源氏物語と、二十世紀の私たちとの共鳴を発見して、ありがたくなつて来るのであらう。いまどき源氏物語を書いたところで、誰もほめない。」と書いているが、その“共鳴”を通じて実朝と現代の私たちが源氏物語を共有しているとすればそれは痛快なことだ。そして、共有しているものが病理なのだとすれば、それは一度ほじくりだしてみる必要だってある。実朝は、源氏物語が書かれた約二百年後を生きた。

想像をたくましくして、この試論では、実朝が十四歳で和歌を詠んだ理由、京都に行かなかった理由、渡宋計画の理由、官位に固執した理由を、源氏物語に見つける試みも行う。たとえば、「右大臣実朝」で、太宰治は公暁にこんなことを言わせている。初代将軍・頼朝は「関東の長者の実力を信じて落ち着いていたんだ」としたあとの科白。

「ところが、失礼ですけれども、当将軍家(実朝)は、そうではないのです。とても平気で居られない。田舎者と言われるのが死ぬよりつらいらしいので、困った事になるのです。野暮な者ほど華奢で繊細なものにあこがれる傾きがあるようだが、あの人の御日常を拝見するに、ただ、都の人から笑われまいための努力だけ、それだけなんだ。あの人には京都がこわくて仕様がないんだ。まぶしすぎるんだ。京都へ行っても、京都の人に笑われないくらいのものになってから、京都へ行きたいと念じているのだ。それに違いないのだ。やたらに官位の昇進をお望みになるのも、それだ。京都の人に、いやしめられたくないのだ。大いにもったいをつけてから、京都へ行きたいのだろうが、そんな努力は、だめだめ。みんな、だめ。」

もちろん太宰治の創作ではあるけれど、大いに核心をついていると思われるその理由を、追って源氏物語の中に求めていこうと思う。

しかし、何にせよ、大きな問題は、はたして実朝は源氏物語を、とりわけ宇治十帖を読んでいたのかということである。読んでいなければ話にならない。

新潮日本古典集成「金槐和歌集」(樋口芳麻呂・校注)の付録資料によると、実朝が源氏物語中の歌を参考にしたらしい歌は4首。次の通りである。

【源氏物語】
空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな(空蝉)
【実朝】
夏山に鳴くなる蝉の木隠れて秋近しとや声も惜しまぬ

【源氏物語】
琴の音にひきとめらるる綱手縄たゆたふ心君知るらめや(須磨)
【実朝】
わが恋は籠の渡りの綱手縄たゆたふ心やむ時もなし

【源氏物語】
さしつぎに見るものにもが万代を黄楊の小櫛の神さぶるまで(若菜上)
【実朝】
たまさかに見るものにもが伊勢の海の清き渚の秋の夜の月

【源氏物語】
住の江の松に夜深く置く霜は神の掛けたる木綿かづらかも(若菜下)
【実朝】
み熊野のなぎの葉しだり降る雪は神のかけたる垂にぞあるらし

「木隠れて」、「綱手縄たゆたふ心」、「見るものにもが」、「神のかけたる」と、「木隠れて」は蝉にひかれてはいるけれど、実朝らしい、音楽的語感で取って読み込んだ歌が並ぶが、これは決して実朝が源氏物語を読んでいたことの証拠にはならない。当時、歌学集など、歌だけを編んだ参考書からいくらでも目にすることができた。それに、巻名から知れる通り、宇治十帖で詠まれている歌はここには含まれていない。

源氏物語を現在流布しているような形に校訂・写本したのは実朝の歌の師・藤原定家である。名月記によれば、校訂・写本の作業を行ったのは西暦で1225年以降のことであり、1219年に殺害された実朝は当然すでにこの世にはいない。そして、定家のこのいわゆる「青表紙本」が成る以前に、源氏物語がどのような形で読まれていたかは確かにはわかっていない。だから、読んだにしても実朝が源氏をどこまで、どの部分を、どんなかたちで読んだのかは、まだわからない。定家の父・俊成が「源氏見ざる歌詠みは、遺恨のことなり(六百番歌合・冬上十三番「枯野」判詞)」と言したのは1194年のことであり、当然、実朝はそれを知っていたであろうし、また、源氏物語が、当時、様々な写本によって読めるかたちで流布していたことだけは間違いない。実朝が実際に目にしたとすれば、その源氏物語は、教師である源光行・親行親子が所蔵していた写本でということにもなるだろう。

実朝は、いつくらいの時期に、どんな源氏物語を読んだ可能性があるか、次回から調べていくことにする。特に重要なのは、今で言う宇治十帖、薫の物語の占める位置である。


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