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源実朝(鎌倉右大臣)と、
その和歌。
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[2009.8.19]
先頭頁「ただいまの歌」を“寒蝉鳴く”の歌に更新しました。一般的には歌格の大きさを誉められ、実朝の代表歌のひとつとして数えられる一首です。各先人の実朝論には欠かさず登場する歌で、詳細にて、幾人かの先人の鑑賞を引用します。

吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり
(読み:ふくかぜのすずしくもあるかおのづからやまのせみなきてあきはきにけり)
(意:風が涼しい。蝉が鳴く。秋が来たのだ。)


■齊藤茂吉/実朝の歌七十首講
「一首の意は、吹いてくる風はもうこんなにすずしくなつたとか、いつのまにか山の蝉が鳴くやうになつて、秋が来た。といふのであつて、従来調べ高き歌だとされたが、実際さうであつた。大きなゆらぎのある、ゆたかにして高いにほひのする、めでたい歌である。
さうしてこの歌には、『おのつがら涼しくもあるか夏衣ひも夕ぐれの雨の名残に』(新古今集)、『庭草に村雨ふりてひぐらしの鳴くこゑきけば秋はきけり』(拾遺集)などの本歌もあるけれども、尽(原著は旧字)く融合消化してしまつて、殆どそのあとを止めないほどの手際である。
この歌の『おのづから』といふ副詞もうまいものだが、実朝はこの『おのづから』を好んだと見え六たびばかり使つて居る。」

■小林秀雄/実朝(無常といふこと)
「美というものは不思議なものである。いかにも地獄の歌らしいあの陰惨な罪業の深い感じのする西行の地獄の歌に比べると、これは又なんという物悲しい優しい美しい地獄の歌だろう。(筆者尾崎注・著者は先に実朝の歌“ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄行方もなしといふもはかなし”を引いている)要するに歌の姿は作者の心の鏡なのである。そういうことを思うと、例えば、
吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり
の名歌からも同じものが見えてくる、抗し難い同じ純潔な美しさが現れ、ほのかに巨きな肉体の温みにでも触れる様に彼の無垢な魂が感じられて来る。彼自身もそんな具合に触れていたものとさえ感じられて来る。「金槐集」は、凡庸な歌に充ちているが、その中から十数首の傑作が、驚くほど明確で真率な形と完全な音楽性とを持って立現れてくる様は、殆ど奇蹟に似ている。」

■吉本隆明/源実朝
「「吹く風は涼しくもあるか」(筆者尾崎注・著者は貞享本収録の歌を引いている。藤原定家所伝本は“吹く風の”)は、実朝の歌のなかで指おりの秀作である。それは、たぶん「おのづから」のつかいかたにあるにちがいない。<涼しい風が丘山のほうから吹いてきて、その風にのってくるように山の蝉のなく音がやってきた、もう秋か>という<景物>のイメージは卓抜である。鋼鉄色のメタフィジックを喚起し、それが実朝のあるべきようの境涯につながっている。これは本歌と思われる清輔の作品(筆者尾崎注・おのづから涼しくもあるか夏衣日も夕暮の雨の名残りに(新古今集))が、<景物>にくつろいでいるだけの<心>なのとくらべて、格段にすぐれている。征夷将軍ではなくて、いつ殺されるかもしれない詩人実朝の、<秋がきたか>という感慨につながるようにさえおもえている。あたかも殺される年明けのすぐまえの秋につくられたかのように。」

■中野孝次/実朝考
「おそらく透明なさびしさ、もはや孤独感と呼ぶのさえはばかれるある純粋な心のあり方が、おのずから高い調べとなった。語るすべも伝えるすべもない、地上のどこにも帰属しない裸形の魂は、こんなふうな呼吸をしているのであろう。こういう歌になると、新古今類歌がどうの万葉がどうのという気も起らない、ただ口ずさんでその魂の純粋な気配と日本語の韻律のかくも美しいのに驚くのみ。」


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